| サラリーマン野宿旅 |
鹿児島県川辺町にて
| 1999年5月7日(金)。明日は新門司港から東京行きのフェリーに乗らなければならないというのに、まだ九州の南の端にある鹿児島県は知覧町(ちらんちょう)という所に居た。九州の旅も今回で5回目になるが、それも明日で終わりという訳だ。春のゴールデンウィークに、上司の機嫌を気にして決死の覚悟で有給休暇をプラスしての11日間にも渡る旅で、サラリーマンにとってはそう簡単には実現できない貴重な長旅である。そう思うと極めて名残惜しい。まだまだこの九州を堪能したい気分だ。 |
| 今日は朝から柄にもなく開聞岳登山を決行した。1回目の九州の旅で初めて眺めたあの円錐形の見事な姿の開聞岳が、その後脳裏から消えることはなかった。1度はあの山の頂上に立ってみたい。登山を趣味としない者でもそんな風に思わせる魅力が開聞岳にはあった。今回の九州旅行ではその開聞岳登山を実行するのが最大の目的ともなっていたのだ。
体力には全く自信がなく、山といえば東京八王子市にある高尾山(599m)に登るのが関の山で、そこならいざとなればケーブルカーもリフトもある。それが太平洋岸から一気に922mまでそそり立つ開聞岳に果たして自力で登れるだろうか。途中で行き倒れになるのではないか。そんな恐れさえ抱きつつも、どうにか頂上に立ち、無事に下山して来た。その後は開聞(ひらきき)神社に寄ったりしつつ、知覧町の地へと踏み入れた。 |
| 「ちらん」とはちょっと変わった名前で、その名はある特定な事柄と結びついて記憶されていた。それは「特攻隊」である。第2次大戦末期、この地に特攻隊の基地が置かれたのだ。ここから飛び立った特攻機は開聞岳を眺めつつ、片道だけの燃料で太平洋上へと飛んでいった。あまり史実に詳しくないが、この程度の知識だけは持っていた。そこで珍しくも入館料を払ってまで知覧特攻平和会館を訪れた。特攻隊員の手記などを読むと、思わず目頭が熱くなった。
館内の一角には実物の特攻機「零戦」の展示もあった。それは戦後になって海中から引き上げられた物で、胴体はちぎれ無残な姿だった。朽ち果て内部があらわになったコックピットを見ていると、そこに座っていた者がどんな思いで操縦桿を握っていたのだろうかと考えさせられた。 |
特攻機「零戦」
| 知覧特攻平和会館の次は同じく知覧町内にある武家屋敷群を訪れた。時間を気にしつつも、この九州の地まで来て慌ててもしょうがない。じっくり堪能することにした。
立ち並ぶ武家屋敷を一つひとつ歩いて周り、あらから見終わりハタと気が付くと、時間はもう午後の4時をとっくに過ぎていた。いよいよお尻に火が付いてきたのだ。明日、フェリーに乗る新門司港は北九州市だ。同じ九州でもこの知覧とは全く反対の北の端である。乗船手続きを考えるとそこに明日の夕方5時頃には着いていなければならない。今は九州自動車道が完成し、それに接続して指宿スカイラインがある。いざとなればそれを使えば早い。しかし、渋滞などどんな事態が待ち受けているかも知れず、なるべく新門司港に近付いておいた方が安全だ。それに、フェリーにはめっぽう弱い体質である。船酔いになってしまうのだ。フェリーで東京港まで船旅をすることは、開聞岳に登るより難事業なのである。されば、なるべく余裕を持って新門司港に到着し、体調を整えて臨みたい。すぐさまジムニーに乗ると今日の宿の目処も立てぬまま、県道23号を北を目指して走り出した。 |
| ジムニーを運転しながらも、今日は慣れない登山をしたし、明日のフェリー乗船を控えて体力を使う野宿は敬遠しようと考えていた。それなら遅かれ早かれ宿を決めなければならない。このままあてどなくジムニーを走らせるより、すぐさま予約を入れてしまおうと思い至った。 |
| 世の中、小学生までも携帯電話を使ってメールする時代だが、携帯電話など自分には全く関係ない代物と思っていた。電話をする相手がほとんど居ないのだ。それにお金ももったいない。全く通話をしなくても月々の料金が数千円も取られてしまう。しかし、時と場合によっては便利な道具でもある。これまで旅先で宿に予約の電話をする時、公衆電話を探すのに随分苦労した経験がある。携帯電話を持っていればそんな苦労はいらない。そこでつい最近、携帯電話を持つようになり、今回の旅にも持ってきていた。この旅の間、友人と1、2度話しただけで、ほとんど出番のなかった携帯電話であるが、それが今、役に立つ。 |
| 県道沿いに目にとまった待避所に車を停めると、早速JTBの「宿泊情報」(西日本編)をめくり、宿を物色した。ビジネスホテルが一番無難だが、味も素っ気もない。そこで公共の宿を探した。2食付きで値段が安く、畳の部屋と広い浴槽、それが温泉なら言うことなしである。えびの高原辺りの公共の宿に目星をつけ、携帯電話を掛けた。こんな何もない道端からでも電話が使えるとは、なかなか便利な世の中である。
しかし、電話に出た係りの者の返事はつれなかった。夕食時間に間に合わない遅い到着ではダメだと言う。夕食なしではどうかと食い下がったが、別を当たってくれと電話を切られた。ちょっと腹立たしく思い、宿の予約でこれ以上手間取るのも詰まらないと、あっさりビジネスホテルに切り替えることにした。 この近辺で一番の大都市は鹿児島市である。鹿児島市街まで走れば、ビジネスホテルはいくらでもある。しかし、いつの間にかもうそこまで走る気も失せていた。それに都市の中は道が複雑で、ホテルを探すのに苦労するのもいやだ。もっと近くで分かりやすい所にホテルはないか。すると、知覧町の西に隣接する川辺町(かわなべちょう)にビジネスホテルが一軒だけあるのが分かった。値段もシングルで4,000千円から4,500円とある。しかも朝食付だ。電話をすると何ら確認するまでもなく、あっさり部屋が取れた。指宿スカイラインの知覧ICを目の前に、今来た道をまた知覧方向へと戻るのが少ししゃくだったが、今夜の宿が決まった安堵感もあり、落ち着いた運転で川辺町へと向かった。 |
| 地図を見ると川辺町を通る国道はたった一本で、それが町をほぼ南北に縦断しているだけの小さな町だ。ビジネスホテルというのは大抵鉄道の駅の近くにあるのが相場だが、川辺町は違った。川辺町にはそもそも鉄道が通っていなかった。目指すホテルは町役場のある中心街に位置しているようだ。
正直に言わせてもらうと、失礼ながらこういう田舎のビジネスホテルは、ちょっと不安な気がしていた。これまでも何度かその手のホテルや旅館に泊まったが、そうした所ではこちらの持つ宿の常識が通用しない場合が多々あったのだ。 しかし、「宿泊情報」では知覧町をはじめとして川辺町周辺の市や町に、ビジネスホテルの掲載が全くない。大抵が旅館である。この薩摩半島で鹿児島市を除けば、ビジネスホテルがあるのは川辺町がほとんど唯一と言っていいのではないだろうか。旅館というのは一人では利用し難い面がある。その点、ビジネスホテルは元々一人用のシングルルームがあり、宿の者との接触も少なく気楽である。これでは川辺町以外には選択肢がないに等しい。これからの運命は逃れようがなかったのだ。 |
| 電話で聞いた道案内に従い、国道225号から分かれた県道を西へ少し進むと、その道の左側に目指すホテルは直ぐに見つかった。指示されたように、ホテルの裏手にあるパチンコ店と共通の駐車場に入れ、パチンコ客の車に紛れてジムニーも停める。ホテル用とも何とも看板がなく、随分アバウトな駐車場である。荷物を持ってホテル正面の階段を上ると、2階建てのホテルの2階に小さなフロントがあった。 |
| 普通のビジネスホテルのフロントなら、スーツにきりっとネクタイを締めた男性や、時にはスーツ姿の女性のフロント係が居る。そうでなくとも、少なくとも客を迎え入れようとする意志を持つ者が居ていい筈だ。こちらはそう期待している。ところが、向かったホテルのフロントには、係りの者だか何だか分からない数名の男女が、騒がしく話したり動き回ったりしている。こちらには何の気もとめようとしないのだ。話しに割り込み、やっと宿泊の旨を告げた。すると、応対に出てきたのは70歳前後の一人のおばあさんだった。
このホテルがある建物は、宿泊業務以外にもパチンコやら宴会場やら、いろいろ経営しているようだった。それを家族総出で営んでいるらしい。ホテル業務以外が忙しいので、おばあさんが普段着のままで出動という感じである。 |
| 明日は新門司港まで長い移動をする為、時間に余裕を持ってなるべく早く宿を発ちたいと考えた。こういう小さなホテルでは、早朝にはフロント係がまだ出ていない可能性が高い。そこで、翌朝6時過ぎには出発したい旨、そのおばあさんに告げると、案の定その時間ではまだフロント係が居ないし、ホテルの出入り口も開いていないと言う。代わりに裏口からの出かたを後で教えてもらうことにした。
宿泊料金は当然その場で払うことになった。通常の宿泊に含まれている朝食の代金は差し引かれるが、駐車料金は加算されるという。しかし、なかなか金額を教えてくれない。不審に思いおばあさんの手元を見ると、小さなメモ用紙に鉛筆で何やら書いている。料金を計算していたのだった。引いたり足したり、消費税5%を掛けたり、なかなか時間が掛かる。しかもやっと出てきた結果は明らかに間違っていた。キャッシュレジスターとはいかないまでも、電卓くらいないのだろうか。今時、手計算をしている人など見たことない。しかもこんなおばあさんが。いらいらしながらも、辛抱強く正解が出てくるのを待った。 |
| 結局、料金は3,900円に消費税5%を含めて4,095円也。この料金は魅力的である。田舎のビジネスホテルの最もいいところだ。しかし、後から気付いてみると、領収書もレシートも何もくれなかった。これではそのホテルに泊まったという旅の記録が残らない。あの計算メモでも、もらっておけばよかった。
裏口から出る経路と方法を聞いてから、宿泊する部屋に行こうとすると、おばあさんが一緒に付いて来る。部屋を案内する積りらしい。フロントの続きの奥が細長い廊下になっていて、その両側にいくつかの客室が並んでいた。建物は2階建てだが、ホテルは2階部分だけを使っているようだ。それ程部屋数も多くない。 |
ホテルの廊下
| 案内されたのは一番奥の右側の部屋。廊下の突き当りには、移動式の黒板や何やら雑然と物が置かれている。ちょっとだらしないとは感じたが、これが後になって問題の種となるとは思ってもみなかった。
おばあさんは部屋まで入ってきて、いろいろ説明してくれる。ここに電気ポットがあるとか、こっちがバス・トイレだとか。ビジネスホテルでこんな懇切丁寧な案内を受けたのは初めてである。フロントで事務的な手続きをするだけで、後は他人と接触する煩わしさがないのがビジネスホテルのメリットだと思っていたが、それがこのホテルでは通用しないのだった。 多分、このおばあさんは自分自身では他のビジネスホテルに泊まった経験がなく、世間一般のビジネスホテルとはどんなものなのか全く知らないのだろう。伝統的な日本旅館のイメージで、仲居役を演じている積りなのかもしれない。日本のあちこちでビジネスホテルに泊まった経験があるこちらとしては、バス・トイレや茶器の使い方などは要らぬお世話で、ちょっとありがた迷惑に感じていた。おばあさんの説明にもハイハイと生返事をし、早々に部屋を退散してもらった。 |
| 部屋は意外と広く、置かれている調度品などは古くて傷んだところもあるが、概ね快適である。一般に、ビジネスホテルの客室はベッドの周囲に僅かに歩ける空間があるだけの窮屈な代物と決まっているが、その点ではこのホテルの造りはゆったりしていて「部屋」と呼べるものだった。田舎では土地や建物の値段も高くなく、広々とした立地が可能なのだろう。これも田舎のメリットか。
部屋に一つある窓は北を向き、そこからはホテルが面している県道を目の前に見下ろすだけで、二階建てのホテルではそれ以上の遠望は望めなかった。窓の左右を覗けば、道に沿ってあまり賑やかそうではない川辺町の町並みが続いていた。何となく物憂げな町の夕暮れ時である。時間は夕方6時を過ぎていた。 |
| このまま明日まで部屋に閉じこもってしまうのももったいないので、すぐさま部屋を出てホテル周辺を散策することにした。道の反対側に急な石段を見つけ、登ってみると小さな神社があった。川辺神社とある。町のこの一画だけ僅かに高台となっていて、緑の木々も多く町の喧騒から逃れていた。神社に隣接して運動場があり、ちょうど子供たちが野球の練習をしている最中だった。今日は平日なので放課後のクラブ活動だろうか、顧問の教師らしき男が一人だけ声を張り上げて、あまり熱心そうには思われない少年たちを指導していた。日本のどこにでもある有り触れた日常の風景だと思った。自分ばかりがこの町と何の関わり合いもない。この自分とは一体どういう存在なのだろうか。長旅をしていると、こんな風に感じる瞬間が時々ある。間もなく川辺町の空は夕焼けとなった。見ると西の低い山に赤い太陽が隠れようとしている。これ以上散策する場所の当てもなく、一人ホテルの部屋へと戻っていった。 |
| 部屋ではお決まりのレトルトや即席の食品で簡単な夕食を済ませ、バスに入って開聞岳登山の汗を流し、部屋に備え付けのソファーに深く腰を下ろしてのんびりくつろいだ。明日はただ新門司港まで移動するだけでよい。九州をほぼ縦断する長丁場となるが、指宿スカイラインから九州自動車道と走り繋げば、時間的には問題なさそうだ。ちょっと地図で下調べをすると、後はもう他にするべきことはない。就寝前までぼんやりテレビを眺めることにした。県道を通る車の騒音もなく、このまま静かな夜が更けていくかと思われた。 |
| しかし、暫くすると部屋の外の廊下が騒がしい。女が一人、何かをわめいて廊下を動き回っている。時々どこかの部屋のドアを叩いたり、ノブをガチャガチャと乱暴に動かしたりている様子だ。何の騒ぎだろうかと聞き耳を立てるが、女が何を言っているのかさっぱり分からない。かなり興奮して、ヒステリックとも思える。何者だろうか。他に泊り客が居たような気配はなかったが、まさか気の触れた女が徘徊している筈もなかろうが。
まあ、こちらには関係ないことだと、わざわざ外に出て事態を確認するでもなく、そのままほっておいた。すると、急に私の部屋のドアノブを強く引いて、開けようとするではないか。ノックもせずに、突然である。一体どういう積りだ。驚いてソファーから立ち上がったが、こちらは風呂から出たきり、下着も着けず真っ裸である。咄嗟には声も出ない。こんな姿を見られては、どんな事態へと発展するかもしれない。 |
| 幸いドアの鍵は掛け忘れていなかった。女はドアが開かないと悟ると、また別の部屋へと移って行ったようだ。暫し、呆然と立ち尽くしたが、また何が起るか分からない。下着を身に着け、浴衣をまとうことにした。
その後、騒ぎは沈静化へと向かった。不安をよそに、ホテルの中は物音一つしない静けさとなった。就寝後も騒音で起こされることなく、無事に夜が過ぎていった。それにしても、ホテル内で何が起っていたのだろうか、さっぱり見当が付かない。一つ言えるのは、部屋の鍵は掛けておくものだということだった。 |
| 翌朝は早起きをし、そそくさと支度をした。準備が整い、さて部屋を出ようとドアノブをひねって前へ押すと、ドアが何かに当たって開かない。いつの間にか部屋に閉じ込められてしまっていた。僅かに開いたドアの隙間から、まだ暗い廊下の様子をうかがっても、どういう事態か分からない。大声を出して人を呼ぼうかとも思ったが、試しに強くドアを押してみた。すると、辛うじて人ひとり通れるだけドアが開いた。そこを旅行カバンと体をすり抜け、廊下に出た。見ると、昨夜廊下の隅に見掛けた黒板などが、ドアの前に移動してあったのだった。
昨夜の騒動といい、今回といい、この部屋に人が泊まっているなどとは全然思っていないのだ。何の配慮もなしである。滅多に泊まり客などないからかもしれないが、あまりにも非礼な扱いである。やや憤慨した気分で誰も居ないフロントへ廊下を歩いた。この分では昨日約束した裏口も開けられないかと思ったが、そこはおばあさんの指示通りで、無事にホテルの外に出ることができた。 |
| 1999年5月8日(土)。その日、折角川辺町に寄ったのだからと、町内にある岩屋磨崖仏というのを見学し、名残惜しい九州旅行の最後のあがきをする。その後はもう観念し、川辺ICより指宿スカイラインに乗り、目的の新門司港には午後の3時過ぎには到着した。フェリー出航まで港近辺で暇をつぶす。
乗船したフェリーが港を離れたのは7時過ぎで、港にはもう明かりが灯り始めていた。岸壁には見送りか単なる見物か、2、3人の人影が見られるだけの寂しい出航であった。2日後の月曜日の早朝には東京フェリーターミナルに着岸する予定となる。その足で自宅にも寄らずに出社だ。そうなれば、もう自分の存在がどうのこうのなどと考える余地もない、これまで通りの日常がまた始まる。 <初掲載 2004.
5.23>
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